ふしぎな0系新幹線のサボを発見、そしてサボにまつわるお話

鉄道のオタクなら、東海道新幹線の開業時は列車の種別・行先表示に方向幕ではなくサボを使っていたという話を存じている人も多いのではないだろうか。

東海道新幹線は、その無機質さや車両の面白みの無さなどから、開業前の盛り上がりを除けば全く鉄道のオタクの趣味対象にはなっていなかった過去がある。
岡山・博多への延伸が行われ、0系を0系で置き換えるようになった1970年代から徐々に編成の組成がややこしくなり、1985年には100系がデビュー、90年代をピークに多くの系列が走るようになり、過去を振り返るフェーズになると新幹線も立派な趣味対象へと昇華。2020年に700系が引退すると走る車両はN700A・N700Sだけとなり、1960〜70年代のなんの面白みもない状態に逆戻りした感のある東海道新幹線だが、先述のこともあり趣味対象としては一定の地位を得ている様子である。

既存の技術をただ使っただけであると同時に、全く新しい鉄道システムである新幹線鉄道。幸いなことに開業前から膨大な資料が世に放出されている。
その中でも、何故かあまり資料が残っていないものが一つある。サボである。いにしえの昔から使われている、行先表示をする鉄の板。

開業当時の新幹線は列車本数も少なく、東京〜新大阪間を往復するだけで列車パターンも単調。在来線の特急車両では当時すでに方向幕の整備が始まっていたが、先の理由により幕ではなくサボが採用された。
超特急ひかりは黄色地に赤文字、特急こだまは白地に青文字と、後年の方向幕と似た配色となった。

しかし、200km/h以上で走る新幹線である。風圧によりサボは浮き上がり、サボ受けから脱落、そして駅や車両基地では盗難にも遭う。正直いちいち12両全部のサボを取り替えるのもダルい。早くも両先頭車のみへの装着となり、そして1972年、岡山延伸により運行パターンも複雑になったため、結局サボ自体が廃止された。サボ受けも3次車以降の増備車からは順次取り付けられなくなり、方向幕も装備されて後年の0系新幹線の姿となった。

使われなくなったサボは、捨てられたり売られたり、一応保管されたりしてなんだかんだ現存しているものが多い。

今でもたまに廃品発売やコレクション放出で出回る事があるが、99.9%は営業時に装着していたものだ。
だがつい最近、ギョッとするものが現れた。

これだ✍️(ベストハウス1・2・3)


「特急124列車 東京行」「特急101列車 新大阪行」が1枚になった0系のサボだ。

おお、珍しい。「こだま」のサボか。そう思って一度はスルーしたが、なんとなく見返した時に驚愕した。これは「こだま」ではない。「特急」のサボだ。しかも「号」ではなく「列車」とある。これはまさか...

東海道新幹線の列車名が決まったのは1964年7月7日。公募により、超特急を「ひかり」、特急を「こだま」と命名した。
開業の3ヶ月前に決まったのである。「ひかり」「こだま」のサボが作られたのはそれ以降となる。

しかし、サボが装着される0系量産車はもちろん7月以前から試運転を繰り返している。当然、サボ受けも搬入時から設置済み。つまり、サボのサイズは0系の設計時から決まっており、サボ自体も車両と同時並行で作られていたはずだ。今回見つかったサボは、開業に際して用意されたもののお蔵入りになったものという事であろう。

一つ確実に言えるのは、1964年7月7日以前に作られたサボであるということ。しかし、新幹線の列車名を「◯◯◯列車」とする予定だったという話は、なかなか出てこない。開業前に国鉄内部で決まった話だからである。

こうなってくると、何か情報がないかと探してみたくなるのがオタクというもの。

ということで、所蔵する新幹線関連の書籍をひっくり返してサボに関する記述を探してみることにした。同時に交友社がサービスを提供している「鉄道ファン図書館」も利用していく。

その前に、量産車の搬入から試運転に至るまでの過程を調べてみる。

鉄道ファン1964年4月号の6Pに搬入の様子の記事があるので引用する。以下の記事は同年2月の話である。

新幹線の走るまで 23
量産車鴨宮へお輿入れ

日本車輌の構内での試運転を終った6両は, それぞれ2両ずつ3回にわけて鴨宮のモデル線管理区へ回送された。まず15日に22-1と25-2が, 19日に21-1と26-1が, 最後は24日に16-1と35-1がそれぞれ特別列車で品鶴線経由で運ばれた.

この時搬入されたのが、いまでは京都鉄道博物館で保存されている0系、C編成の22-1以下6両だ。
あくまで搬入レポートであるため、この号には試運転の様子はまだ載っていない。もしサボを装着した写真があるとしたら以降の号となるだろう。

次の号、鉄道ファン1964年5月号の6P「新幹線の走るまで 24 量産旅客電車誌上見学」の見出しに、サボを装着してキリッと写るC編成の写真がある。
3月1日に初めて低速で本線走行を行い、3月2日以降から本格的に試運転を始めたとの記述がある。

そして、探していたものが案外あっさり見つかった。

同号8Pの写真11に、C編成2号車26-1が特急 001列車 新大阪行のサボを装着している様子がはっきりと写っていた。
しかしサボに関する記述はなく、その後は内装の写真となり節が終わる。

どこかにサボ、あるいは行先表示や列車名に関する記述はないか、他の号も漁ってみることにした。

鉄道ピクトリアル1964年5月号にも、17Pに鉄道ファン1964年5月号と同じタイミングで撮ったであろう写真が、パンタグラフについての節で掲載されている。

鉄道ファン6〜9月号に鴨宮モデル線や量産車の試運転、全線試運転、駅の建設などの記述があったが、サボを装着している写真は見つからなかった。列車名やサボに関する記述も無い。

列車名が決定したのが7月7日であるから、流石に10月号あたりなら何かそういった話が載っているのではないかと探してみたところ、やはり見つかった。鉄道ファン1964年10月号14Pより引用する。

新幹線列車の愛称きまる

世界一の高速列車の名前は......?レールファンのみならず多くの人々の関心を集めていた新幹線列車の愛称が去る7月7日に決まつた. はじめは愛称名はつけないはずであったが, 乗客の利便を考慮し, また広く国民の感心をよび起こす意味から公募にふみきったもの.
6月13日以降, 新聞・テレビ・ラジオ・ポスターなどで募集した結果, "こだま"のときの約3倍, 558,882通の応募があり, 遠くインド, 台湾などから寄せられたものもあって, 予想外の好成績に関係者一同大喜びであった.
愛称名の種類は780にも及び, 鉄人, アトム, オリンピアなど世相を反映したもの, メダカ, ナルちゃん, ゲイシヤ, カァちやん, などふざけたものも散見されたが, スピードを象徴するものとして光速の代表 "ひかり", 音速の代表 "こだま" がそれぞれ超特急・特急の愛称に選ばれた. 超特急は下りがひかり1〜ひかり97, 上りがひかり2〜ひかり97, 特急は下りがこだま101〜297, 上りがこだま102〜298というようになる. なお区間列車は300代, 不定期・臨時は400代の列車番号になる予定.

列車名決定の記事だ。しかし「◯◯◯列車」とする予定だった、というような記述はなく、あくまで「元々愛称は付けないつもりだった」程度しか書かれていない。

「ひかり」「こだま」の愛称は瞬く間に定着し、鉄道趣味雑誌でも愛称決定前の話なんて忘れ去られていたようだ。
試運転中にサボを装着していた話や、「◯◯◯列車」という列車名に関する話が出てくるとなれば、後年に発行された振り返り系の書籍になるだろうか。
ということで「新幹線十年史(1975 日本国有鉄道新幹線総局 社団法人交通文化振興財団)」を読んでみる。
約800Pに及ぶ分厚い本であるが、行先表示に関するものは以下のものが見つかった程度だった。

454P

第7章 設備および車両の更新

第13・14・15次車
(略)
ア 博多開業関連対策
(略)
行先・座席(自由席・指定席)表示器を取り付けた。
(略)

一応ではあるが、13次車からは既に廃止されていたサボに代わり、行先表示器を設置した旨がこのように書かれていた。
分厚い本であるが、開業から10年間の話をあらゆる面からまとめた本であるためか、開業前の列車名決定前後に関する記述は見当たらなかった。
ちなみに副産物として、黛敏郎作曲の車内チャイム、いわゆる「黛チャイム」の採用期間が1968年9月1日から1972年3月14日までだと分かった。

新幹線が開業15周年を迎え、鉄道ファン1979年12月号・1980年1月号の2号に渡り特集が組まれた。
1980年1月号の15Pには、なんの偶然か「特急こだま 101号 新大阪行」のサボを装着した「こだま101号」のモノクロ写真が掲載されている。今回取り上げている、件のサボの後の姿と言えよう。
30周年を迎えて特集が組まれた、鉄道ファン1994年11月号の16Pにも別カットであるが「こだま101号」のサボのカラー写真が掲載されており、こちらは1964年10月1日(開業日)の撮影。おそらく1980年1月号のものと同日の撮影だと思われる。
40周年特集の2004年10月号69Pには「ひかり1号」「こだま109号」のサボのカラー写真が掲載されているが、ここでも「初期はサボだった」程度しか書かれれていない。

さて、こうなるともっと後年の書籍を漁るしかなさそうだ。
ありそうなのは0系新幹線が引退した2008年に発行された趣味雑誌。鉄道ファン2008年11月号を読んでみると、22Pに「新幹線の列車名・列車愛称のこと」として、先述の内容が記載されていた。また23Pには、1964年7月撮影のカラー写真でサボを装着したC編成がK3編成に牽引(!)されて回送されている様子が載っている。
25Pには

また当初は, 列車種別・行先・座席指定などのサボがこまめに使用されていた.

26Pの3次車増備についての節には

またクリーム色で目立つ列車番号・行先札差しは, 中間車は使われないため全廃して先頭車のみとし, 各車は座席表示と号車札差しなどに変更された。

とあり、1965年の増備車から早速サボがほぼ用済み扱いになっている事が伺える。
次の27Pには、1964年3月撮影の16-1がサボを装着している写真が載っており、これは鉄道ファン1964年5月号8Pのものと同日かそれ前後の撮影のものと思われる。
以降は1000番台・2000番台小窓車の解説となる。

次に、東海道新幹線開業50周年を迎えた2014年に刊行された鉄道ファンを漁る。鉄道ファン2014年11月号9Pには、鉄道博物館に収蔵されたばかりの21-2の特集でサボについての記述があるが、内容としては前述したものとほぼ同じことが書かれていた。
17Pには、1963年3月に撮影された、1000形B編成を使った行先表示のテストを行なっている様子の写真が掲載されている。種別・列車名・行先を個別に用意したものが車体に貼られているもので、「特急」「555列車」「東京←→新大阪」の文字が見える。この時点で既に列車名は「◯◯◯列車」でやろうとしていた事が分かる貴重な写真だ。
同様の写真が1979年12月号にも掲載されているものの、別カットと見られる。

他の鉄道ピクトリアルの号も漁ったり、「『証言』東海道新幹線(2014 イカロス出版)」「東海道新幹線 1964 〜夢の超特急誕生前夜〜 (2015 交通新聞社)」も読み漁ったが、愛称決定以前の列車名についてや、サボ自体についての記述は見つけられなかった。ここまで漁ってほとんど情報がないとなると、サボや列車愛称自体は正直どうでもいい話として処理されている節があるように思える。実際、別に資料としては良いものではあるが、価値としてはそれ以上もそれ以下もない代物であるわけだ。

「◯◯◯列車」と名付けて運行するつもりだったという話を以前どこかで見かけた気がしたが、今回は見つからなかったので引き続き調査して判り次第追記したいと思う。




長文を書いたくせに何も分からずに終わるクソまとめサイトみたいになってしまった。